日本が輩出した世界に誇るストライカー、釜本邦茂(かまもと くにしげ)。
お父さんや兄弟もスポーツに秀でていた、スポーツ一家の出身なんです。
やんちゃな野球少年が、いつしかサッカーの道に入ると、様々な人の導きで、サッカーの才能を伸ばしていきます。
中学・高校時代では、全国大会等でのプレーから、その才能は周囲から注目され始めます。この頃には、デットマール・クラマーさんとの出会いも。
大学時代には、天皇杯優勝、東京オリンピック出場など、着々とキャリアを積み上げていきます。
そんな釜本さんの兄弟の存在、幼少期・小学校・中学校・高校・大学(学歴)の歩みやエピソード、出身地などを、まとめてお届けします。
釜本邦茂 兄弟は?父や母は?出身は?
1944年4月15日、京都市右京区太秦生まれ。
5人兄弟の4番目(兄2人、姉1人、妹1人)です。父・正作さん、母・よしえさん。
・お父さんは、剣道経験者。
・長男・幸和さんは、京都商業のテニス部のキャプテン。
・次男・欣晃さんは卓球。
・長女・美佐子さんは、小学校の頃から勉強も運動会も学校の花形。
スポーツ一家であることが分かりますね。
「邦茂(くにしげ)」という名前には、日本の邦を茂らせる人になれという当時のお父さんの願いが込められています。
幼少期は、障子破りやチャンバラごっこを繰り返し、近所でも評判のやんちゃな子供でした。罰として母・よしえさんから、庭の桜に縛り付けられることもあったそうですよ。
釜本邦茂 小学校時代 野球少年からサッカー少年へ
釜本さんは、もともと野球少年。通っていた京都市立太秦小では、低学年時は三角ベースのスター打者。京都出身だから、ずっと阪神ファン。
しかし、太秦小には、戦後すぐ京都師範(現京都教育大)で「蹴球」をプレーした教員が赴任していました。
釜本さんがサッカーを始めたのは、4年生から。ただ、本格的にということではなく、冬に授業でサッカーをして、最後にクラス対抗試合があったり、先生と試合をしたりという程度でした。
しかし、みんながワーッとボールの所に集まるところを、「ゴール前で待ってた方がいい」と、釜本さんは行かなかったそうです。
すでに、得点感覚の片鱗を見せていたんですね。
中学で野球部に入るつもりでしたが、太秦小の池田璋也(てるや)先生の「サッカーがうまくなれば、五輪に出て、世界を回れる」という言葉が、釜本さんをサッカーの道へと導きます。
この一言が、日本サッカー史を作ったと言っても過言ではありません!
ちなみに、池田先生は教員の強豪チーム・京都紫光クラブ(京都サンガF.C.の前身)に所属していていました。
釜本邦茂 中学校時代 サッカーへの本格的な一歩
市立蜂ヶ岡中学校では、池田先生の勧めの通り、サッカー部に入部。
初めの頃は、つまらなく、練習行かずに帰ったことがあったそうです。
そして、野球していると、先輩の二村昭雄さん(にむら あきお、東洋工業・現サンフィレッチェ広島、元日本代表)たちから「明日から練習来い」と言われ、サッカー部の練習に戻るというようなことも。
入学時の身長は140cmほど。1年生の秋の大会で着た背番号「8」のユニホームは、短パンに半分以上が隠れて「0」に見えたとのほほえましいエピソードもありました。
3年の時、主将として京阪神三都市大会で優勝!京阪神地域の指導者のからも注目される存在になっていきます。
釜本邦茂 高校時代 驚異のキック力と成長
京都府立山城高等学校(1960年 – 1962年)に入学・サッカー部へ
「サッカーしたいから山城に行く」と、お父さんと進学先について、もめていると、お姉さんが「本人がサッカーやりたいっていうんなら、やらせてあげれば」と助言してくれたそうです。
お父さんは、自身も目指していた弁護士になってほしかったそう。名門の嵯峨野高校(現在も京都公立御三家に挙げられる)への進学を希望していたそうですよ。
1年生でレギュラーの座を掴むと、中学の先輩・二村さんとともに、10月の熊本国民体育大会で優勝!
試合開始直後、ハーフウェーラインからGKの位置を見てロングシュートを決めた逸話は、まさに伝説級。50mの距離を正確に蹴り込めるキック力は、この頃から持っていた力でした。
“日本サッカーの父”デットマール・クラマーとの出会い
1961年に京都府サッカー協会会長の藤田静夫(後の日本サッカー協会会長)の計らいで、大学生以上を対象とした講習会に特別に参加します。
ここで、のちに“日本サッカーの父”と呼ばれるドイツ人サッカー指導者のデットマール・クラマーさんに会います。
このときクラマーは釜本さんの素質を見抜き、「素晴らしいが、スピードをつけ、敏捷性を増さなければならない」と話したそうです。釜本さんも、小柄なクラマーさん(160cmくらいとの情報も)のヘディングのボールの強さに驚き、その教えを真剣に聞いたそうです。
1962年1月には、全国高校サッカー選手権で準優勝に輝きます。
決勝は修道高等学校(広島)との対戦。パサーである二村さんを怪我で欠いた影響もあり、2-4で敗れてしまいます。
同年4月には日本ユース代表に選出され、第4回アジアユース大会に出場しました。
釜本さんの金言
高校時代について、「山城高校はグラウンドが小さくて、小さなエリアしかサッカーができなかった。なので小さいプレーをしていたというのが良かったかもしれない」と振り返っています。
また、このように話します。
「身体の大きい選手が、小さいことをやらないといけない。背の高い選手は、高いことの練習ばっかりしていたらだめ。足の速い選手は、足の速いことばっかりでは良くならない、テクニックを身につけないと。」
釜本さんは、様々な逸話が残るように、苦手なことを徹底的に練習し、向上させることで、世界に名を知らしめることになります。
釜本選手の凄さ・エピソードについては、こちらをあわせてお読みください。


長所を伸ばすか、短所を直すかという議論がありますが、釜本選手は、両方を伸ばすことができる選手でした。それには、成長するための研究と目標を達成するための努力を続ける才能があったからだと感じました。
私自身、長所と短所の両方を伸ばすには、どうしたらよいか、考えさせられる機会となりました。
釜本邦茂 大学時代 4年連続の得点王と日本代表への飛躍
早稲田大学での離れ業
1963年に早稲田大学第二商学部に入学(1963年 – 1966年)。
1年時に、関東大学リーグで優勝!11得点で得点王となり、結果、4年連続得点王に輝きます!
日本ユース代表主将として、第5回アジアユース選手権にも出場。
1964年1月、日立製作所(現・柏レイソル)を破り、天皇杯優勝!
1967年1月、東洋工業(現・サンフレッチェ広島)を破り、天皇杯優勝!
※これ以降、天皇杯での大学勢の優勝はありません。
●早稲田大学での実績
関東大学リーグ優勝 3回(63、65、66年)
大学王座優勝 2回(63、65年)
大学選手権優勝 1回(66年)
天皇杯優勝 2回(64、67年)
代表として、東京オリンピックに出場も…
19歳(1964年)で日本代表に初選出されると、その年の東京オリンピックにも出場。
日本代表は、グループリーグでアルゼンチンを破る歴史的勝利を経験し、ベスト8まで勝ち上がりました。
しかし、釜本さんは1ゴールも奪えず…。「何か物足りなかった。3試合で1点も取れなかったからだ」と、フラストレーションの残る大会となりました。
その悔しさを糧に、1966年12月の第5回アジア大会で、6ゴールを挙げて3位入賞に貢献。
大学時代はまさに、世界へ羽ばたくための助走期間でした。

「釜本邦茂の全盛期は?引退後は?海外移籍はなぜしなかった?」も、あわせて読んでいただくと、釜本さんへの理解がより深まりますよ。

釜本邦茂のプロフィールはこちら
生年月日 | 1944年4月15日 |
出身地 | 京都府京都市右京区太秦 |
身長、体重 | 179cm/79kg |
愛称 | ガマ、ガマッチョ |
ポジション | FW |
利き足 | 右 |
まとめ
今回は、釜本邦茂について深掘りしてきました。
• 小学校時代:野球少年からサッカー少年へ転身、得点感覚の芽生え。
• 中学校時代:京阪神地域の指導者のから注目される存在に。
• 高校時代:驚異のキック力と全国レベルでの活躍。
• 大学時代:4年連続得点王、天皇杯2度優勝。日本代表として東京オリンピック出場。
釜本邦茂さんは、才能だけでなく「弱点を鍛える姿勢」や「勝負への嗅覚」を早くから磨き上げ、日本サッカー史に残る選手へと成長しました。その歩みは、スポーツに限らず、努力と成長の大切さを教えてくれますね。