釜本邦茂の全盛期は?引退後は?海外移籍はなぜしなかった?

日本サッカー史にさん然と輝くFW、釜本邦茂さん。

早稲田大学卒業後、ヤンマーを弱小チームから強豪へと押し上げ、1968年メキシコオリンピックでは7得点で得点王、銅メダル獲得の立役者となりました。

今回は釜本さんの全盛期の成績やエピソードは?引退後の活動は?なぜ海外移籍は実現しなかったのか?などについて、まとめてみましたので、ぜひお読みください。

釜本邦茂の全盛期は?

現役生活すべてが全盛期と言っても過言ではないようにも思いますが、しいて分けるとすると、

1、早稲田大学入学(1963年)からメキシコオリンピック(1969年)

2、ウイルス性肝炎から完全回復後の1974年から1975年(2年連続の日本リーグ制覇と得点王)

ではないかと考えます。

釜本邦茂のプロフィールはこちら

生年月日 1944年4月15日
出身地 京都府京都市右京区太秦
身長、体重 179cm/79kg
愛称 ガマ、ガマッチョ
ポジション FW
利き足

では、その経歴を詳しく振り返ってみましょう。

釜本邦茂 大学卒業後、ヤンマーで開花

早稲田大学時代の圧倒的な実績を引っさげ、1967年にヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)へ入社。
当時は関西の弱小チームでしたが、加入した年から得点を量産し、1968年には初の得点王に輝きます。

翌年には天皇杯優勝!決勝ゴールをあげる活躍でチームに初タイトルをもたらしました。

ちなみに、今のようにプロではないので、ヤンマーでは兵庫・尼崎市の工場に配属(機械計算課)され、初任給は手取りで2万7000円ほど。

社内外で「本当はもっともろうてるんやろ」と言われた。ええ機会や。声を大にして言うておきたい。
「退社するまで一般社員と同じ。優勝しても得点王になってもボーナスは一円も出えへんかった」 (引用:日刊ゲンダイDIJITAL)

アマチュアでありながらトップレベルで戦った時代。優勝してもボーナスは出ないという厳しい環境を前に、それでも結果を出し続けた点は本当に尊敬します。

 

釜本邦茂 メキシコオリンピック前に、単身ドイツ留学

1968年1月、クラマー氏の勧めで西ドイツ・1.FCザールブリュッケンに単身留学。

ボールを止め、コントロールし、シュートする。この一連の動作にこれまで時間がかかっていた釜本さん。3か月でボールコントロールやシュート精度を劇的に向上させます。

3か月という短期間で、シュート技術などを習得した釜本さんもすごいですが、オリンピック前に個人を留学させるというプログラムを設定した日本サッカー協会の判断もすごいことですね。

 

釜本邦茂 メキシコオリンピックで大爆発!! 銅メダルを獲得!

帰国後のメキシコオリンピックでは、7得点2アシストで全得点に絡む活躍。初戦ナイジェリア戦ではハットトリックを達成。
準決勝ではハンガリーに0-5で敗れましたが、3位決定戦では地元メキシコを2-0で破り、銅メダルを獲得。あわせて、同大会の得点王に輝きました。

 

釜本邦茂 ワールドカップを目指す中、ウイルス性の肝炎に。

1969年6月、日本代表合宿中にウイルス性肝炎と診断され入院。入院は50日にも及び、選手生命が危ぶまれるほど重篤な状態でした。復帰後も故障が続くなどコンディションが完全に回復するまで3年間かかりました。

この状況は、日本代表にとっても大きな痛手となり、釜本さんのいないチームは、ワールドカップメキシコ大会予選で敗退。夢であったワールドカップ出場は、かないませんでした。

 

釜本邦茂 肝炎からの復帰後は…。第二全盛期を迎える

1970年代には再び得点王に(1970,74,75年)。1971年には、ヤンマーを日本リーグ初優勝へ導き、1974〜75年にはリーグ連覇も達成しました。

病気から復活して再び頂点に立つ姿は、まさに執念の塊。見ている人に勇気を与えます。

 

釜本邦茂 日本代表での戦いと引退

日本代表は1973年のワールドカップ・西ドイツ大会予選、1976年のモントリオールオリンピック予選では敗退。結果を出すことができない状況が続きます。

釜本さんも、モントリオールオリンピック予選後に代表引退を決意していましたが、監督の説得により復帰。

1977年のワールドカップ・アルゼンチン大会予選では、イスラエル戦前のウォーミングアップ中に肉離れを発症。
怪我を押して出場を続けましたが、無得点に終わり、チームも韓国とイスラエルに競り負け、代表引退を決断。
1977年9月のニューヨーク・コスモス戦を最後に、日本代表を引退となりました。

日本代表として1964年から1977年までの13年間に国際Aマッチ76試合75得点を記録。これは現在でも男子による日本代表の国際Aマッチ最多得点記録となっています。

男女を通じては、澤穂希さんの83得点となります。

 

釜本邦茂 代表引退後は、ヤンマーでプレイングマネージャーに

1978年2月、ヤンマーの選手兼任監督に就任すると、1980年に日本リーグ優勝。1981年に通算200得点、1982年に202得点を達成します

その後は、度重なる右足首アキレス腱断裂怪我に見舞われるも、復帰を果たしましたが、1984年1月1日の天皇杯決勝・日産自動車(現横浜F・マリノス)戦が、公式戦最後の試合となりました。

代表でもクラブでも、「点取り屋」として生涯を全うした姿は、本当に格好いいです。

日本サッカーリーグ(JSL)から、1984年シーズンの公式ポスターに「釜本さんのヌード写真を使って盛り上げたい」という依頼があり、「裸の写真!そんなアホな!」と思いながら渋々OK。
結果は、JSLの思惑通り、多くのメディアに取り上げられて何億円もの広告効果があったそうです。

ペレも来日!6万人が「釜本コール」した引退試合

1984年8月には、「釜本邦茂引退試合」が開催されます。ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦は、東京・国立競技場に6万2千人の観衆が集まりました。

往年のスター選手ペレとヴォルフガング・オヴェラートを迎えた試合は、釜本自身が前半15分に得点を決め、引退の花道を飾りました。

 

釜本邦茂 ヤンマー・日本代表での成績まとめ

●ヤンマー
日本リーグ優勝 4回(1971、74、75、80年)
天皇杯優勝 3回(1968、70、74年度)
同準優勝 5回(1971、72、76、77、83年度)
タイ・クイーンズカップ 優勝(1976年)
日韓リーグ1位対抗優勝 2回(1976、81年)

●日本代表
1964年 東京オリンピック・ベスト8
1968年 メキシコ・オリンピック3位
1966年  アジア大会バンコク 3位
1970年  アジア大会バンコク 4位
ムルデカ大会 2位1回(1976年)
3位1回(1972年)
4位1回(1975年)
※ムルデカ大会とは、マレーシアで行われている国際サッカートーナメント大会。
近年は不定期開催となっている。ムルデカは、独立の意味。

 

釜本邦茂 現役引退(1984年)後の活動は?

指導者の道を進む

1985年まで、ヤンマーの監督を続けます。
1991年、Jリーグへの参加予定の松下電器(現ガンバ大阪)の監督に就任。
1993年Jリーグ開幕時には、初代ガンバ大阪監督となりますが、チームの成績が振るわず、1995年1月に退任しました。

政界への道に

1995年の参議院議員選挙で初当選。
2000年、第2次森内閣で、労働総括政務次官を務める。
2001年の参議院議員選挙では落選し、政界引退

日本サッカー協会副会長なども務める

1998年7月 JFA副会長に就任。
1999年7月 2002年強化推進本部長に就任。
2000年7月 労働政務次官就任を理由として、強化推進本部長を辞任。
2001年の参議院選挙での落選後にJFA副会長を辞任
2004年7月 JFA副会長に復帰。

スポーツ界だけでなく、政治や組織運営でも活動の幅を広げるその行動力は、現役時代のプレーそのものですね。

釜本邦茂 2005年には、日本サッカー殿堂入り

2005年に、当時最年少で第1回日本サッカー殿堂入りをしました。

また、2014年に旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)を受章しています。国会議員・都道府県や市議会議員、知事・市長などが対象。

 

海外移籍は、なぜしなかった?

釜本さんには、2度の海外移籍のチャンスがありました。

1度目は、メキシコオリンピック(1968年)での活躍後。

フランス、西ドイツ、ウルグアイ、メキシコ、エクアドルなどの海外のプロ6クラブから誘われます。ドイツの1860ミュンヘン、ザールブリュッケンのどっちでプレーしようかなとまで考えていたそうです。

しかし、ワールドカップ(W杯)予選を控えていて、いずれにしても移籍は「1970年のW杯メキシコ大会が終わってから」と決断。

釜本さんには、「当時の日本サッカーの大盛り上がりに、冷水を浴びせるようなドイツ移籍は封印すべきではないか」という思いがあったそうです。

また、「スポーツで金銭を稼ぐことを堕落」と捉える風潮があり、プロになった選手が帰国して、再び日本でサッカーができるかわからない状況でもあったことが決断の一つになったようです。

残念なことに、W杯1次予選を4カ月後にひかえた1969年6月にウイルス性肝炎で緊急入院となり、50日もの入院生活を送り、代表を断念せざるを得ませんでした。釜本さんのいない日本代表は1次予選で敗退。

完全復帰まで3年の時間を有し、W杯で活躍して、海外のクラブチームに移籍するという釜本さんの夢もついえてしまいました。

2度目は、1975年。

30歳を越え、ピークを過ぎてはいましたが、ペレやベッケンバウアーなどが活躍していた北米リーグからオファーがありました。

しかし釜本さんは、30歳を過ぎて、今からプロになろうという気持ちもないと、すぐに断りを入れます。

もし1度目のチャンスで海外移籍をしていたら、どの様な歴史が生まれていたのでしょうか?本当に残念で仕方ありません。

しかし、釜本さんは違う見方をしています。

「世界に挑戦していたら、通用したとは思います。でも、30歳かそこらで引退して、サッカーとは縁のない人生を歩んでいたかもしれない。今もサッカーと関わっていられるのだから、挑戦しなくて正解だったんですよ」と。

もし海外に行っていたら別の歴史があったかもしれませんが、釜本さん自身が「行かなかった選択を正解にする」と語る姿勢はとても潔く、心の強さを感じました。

同じような考えを持つ人物がいます。中村憲剛さんです。

大関友翔選手(川崎フロンターレ)はレンタル先の福島ユナイテッドからの復帰の決断にあたり、「どの選択肢にしても、それを正解にすればいいから」と中村憲剛さんから言葉をもらい、復帰の決断をしています。

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まとめ

今回は、釜本邦茂について深掘りしてきました。

  • ヤンマー時代:弱小チームを強豪へ導き、得点王や天皇杯制覇を達成。
  • メキシコ五輪:7得点で得点王、銅メダル獲得の立役者に。
  • 病気と復活:肝炎から3年越しに完全復活し、再び得点王へ。
  • 代表・クラブ引退:国際Aマッチ76試合75得点、日本サッカーリーグ251試合202得点の記録を残し、有終の美を飾る。
  • 引退後:監督・政界・日本サッカー協会と多方面で活躍。
  • 海外移籍断念:時期や病気の問題で叶わずも、その選択を受け入れ、前向きに進む。

釜本邦茂さんは、栄光も挫折もすべてを糧にし、サッカーと共に歩んだ人生を全うしました。その姿は、「自分の選択を正解にする」勇気を与えてくれると強く思いました。

公開日:2025年
(注)本記事は公開時点の情報をもとに作成しています。詳細や最新の動向は公式発表や信頼できるニュースソースをご確認ください。
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