今回は、2025年9月開催のU-20ワールドカップで日本代表を率いる船越優蔵監督についてご紹介します。
「関西弁の大男」という第一印象を持たれる方も多いかもしれませんが、彼は国見高校出身の元Jリーガーであり、現在は日本サッカー界の育成年代を担う重要な存在。選手としては決して順風満帆な道のりではありませんでしたが、だからこそ見える景色、伝えられる言葉がある——そんな人物です。
今回は、彼の原点である国見高校時代、プロ選手としての歩み、そして現在の指導者としての姿に迫っていきます!
船越優蔵は国見高校出身!中田英寿らとともに世界を経験した世代
船越優蔵さんの出身校は、全国屈指の強豪・国見高校。194cmの長身FWとして高校1年からレギュラーに抜擢され、小嶺忠敏監督のもとで着実に頭角を現します。
1993年には、U-17日本代表に選出されます。
中田英寿さん、宮本恒靖さん、戸田和幸さん、松田直樹さんらとともに、U-17世界選手権に出場。見事ベスト8進出という日本史上初の快挙を成し遂げました!
中田や財前宣之がゴール前で詰め、船越が競り勝つ。そんな攻撃パターンは当時の日本代表の大きな武器に。
国見高校でも、同じ年の全国高校サッカー選手権で準優勝を飾りました。準決勝の東福岡戦では船越選手がハットトリックを決めるなど、輝かしい高校時代を過ごしました。
それにしても、1993年のU-17代表メンバーの名前を見ると、「黄金世代の前夜」というべき時代だったんだなと実感します。
船越優蔵の現役時代は波乱万丈だった!苦悩と挫折、そして気づき
所属クラブ歴はこちら
所属クラブ歴
- 1996〜1997年:ガンバ大阪 ⇒ オランダ2部・テルスター
- 1999〜2000年:ベルマーレ平塚(2000年~湘南ベルマーレ)
- 2001年:大分トリニータ
- 2002〜2006年:アルビレックス新潟
- 2007〜2009年:東京ヴェルディ
- 2010年:S.C.相模原(同年に引退)
ガンバ大阪からベルマーレ平塚まで
1996年、ガンバ大阪に入団。だが日本でプレーする気があまりなく、高校時代から世界を目指しており、入団してまもなく、オランダ2部のテルスターへサッカー留学。
1年後、G大阪に復帰しましたが、FWパトリック・エムボマが大活躍をしており、出番はほとんど得られませんでした。
若手時代の自分を振り返って、「アドバイスを聞けなかった」「楽な方に流れていた」と正直に語る船越さんの姿勢には、むしろ好感を持ってしまいました。挫折を自覚できる選手こそ、指導者としての器があるのかもしれません。
ガンバ大阪ではリーグ戦3試合のみの出場にとどまり、2年で退団。
ベルマーレ平塚に移籍し、最初は点が取れていたが、徐々に結果を出せなくなり、チームもJ2降格。
1度退団となるも、監督に就任した加藤久さんから声を掛けられ、練習生から再契約。
「毎日をサッカーに向かい合って過ごさないと、いつまでもサッカーで飯は食えない」という危機感が芽生えてきます。
加藤監督の元、肉体改造のための筋トレ・特別メニューに取り組み、鍛えなおしたそうです。
しかし、その年で退団。
大分トリニータから現役引退まで
湘南ベルマーレ退団後、大分トリニータと契約。J2リーグ戦27試合に出場してキャリアハイとなる9ゴールをあげます。
「ちゃんとした生活でちゃんとしたトレーニングすれば、まだオレできるんだ」って、ちょっとした自信でしたけどね、それが大分で芽生えたんですよ。」(引用:楽天ぐるなび・みんなのごはん)
大分在籍時にアルビレックス新潟戦で活躍したことから、新潟から声がかかり、2002年に移籍するも、度重なる怪我に見舞われます。
新潟では、1年目に、出場時間を延ばしていたところで、2002年10月の大分トリニータ戦でアキレス腱を断裂。それでも、2003年には試合に出られるようになり、その年にはチームもJ1昇格を果たします。
4年目の2005年5月、ナビスコカップ大宮アルディージャ戦で、2度目のアキレス腱断裂。
それでも、挫けなかったのは、自分だけでなく、仲間や周りの人の存在があったからと話します。
気持ちが折れそうなとき、周りからのサポート、一言が自分の気持ちを立て直すきっかけとなったこと、自分にもあります。
しかし、さらなる試練が襲います。リハビリ中に再断裂。
2006年に復帰しましたが、新潟との契約が満了となりました。
2007年に、東京ヴェルディに移籍。
2007年のJ2第51節の愛媛戦で2ゴールを挙げ、勝利に貢献(2-1)。2位のヴェルディは、この勝利で3位との差を広げ、最終節52節に引き分けて、J1に復帰を果たします。
ヴェルディは翌年J2降格となりましたが、2009年までプレー。
2010年より、SC相模原へ移籍しましたが、現役を引退。
現役生活を振り返って
自分が今ここにいるのも、仲間とか、周りの人に助けられたからで。その一言に尽きます。(引用:楽天ぐるなび・みんなのごはん)
実は「やんちゃ」だと思われていた時期にも別の顔があった。ピッチ外で見た姿はとても礼儀正しかったのだ。(中略)先輩よりも自分のほうが名が売れていたとしても、敬語での挨拶は当たり前。先輩のために飲み物を取ってきたり、さまざまな気を配ったりと偉ぶる様子はなかった。(引用:FOOTBALL ZONE)
調べ始めた当初、自信過剰となった若手選手が悪いサイクルにはまり、活躍できなかったという風に思ってしまいました。
そういう一面もあったのかと思います。しかし、様々なチームから声がかかり、選手や監督が手を差し伸べてくれていたことを考えると、船越監督は皆から好かれる、大事にしてもらえる素顔があったのだと改めました。
船越優蔵のプライベートな一面は、こちらをお読みください。

度重なる怪我がなければ、遅咲きながら大きな成果を残していたかもしれないと思うと、怪我をしたことが残念でありません。
船越優蔵の指導者としての評価は?育成に懸ける想いと哲学
指導者としての経歴
現役引退後、すぐに指導者の道へ進みました。
指導歴
2011年~2012年 アルビレックス新潟U-13監督
2013年~2014年 ザスパクサツ群馬コーチ
2015年~2020年 JFAアカデミー福島監督
2020年 U-17日本代表監督
2021年 JFAアカデミー福島チーフコーチ兼監督
2022年~2023年 U-19~U-20日本代表コーチ
2023年 U-18 日本代表監督 / SAMURAI BLUE(日本代表)コーチ
2024年 U-18・U-19日本代表 監督
2025年 U-20日本代表 監督
まさに「育成のスペシャリスト」といえるキャリアです。
育成で大切にしていること
- 指示待ちではなく、自分で考える選手に育てる
- リーダー(キャプテン)は決めるが、フォロワーの力が成果を達成するには必要。
- メンタリティの強化(ボールを持てないところでも試合をコントロールできるなど)
- A代表に選ばれることが一番。上に選手をつなげるのが我々の使命。
彼の考えの根底には、恩師・小嶺忠敏監督の影響があるとのこと。小嶺監督の時代の流れに応じて学び続ける姿勢を尊敬しているそうです。
選手を「勝たせる」のではなく、「育てて上につなげる」…育成年代の監督として、非常に重要な視点ですよね。
ちなみに選手からの声として、横浜F・マリノスの植中朝日は、「基本、めちゃくちゃ面白いです キレたらめっちゃ怖いです」と話しています。
評価と今後の期待
2025年2月、U-20アジアカップで日本代表をベスト4に導き、見事W杯出場権を獲得。
しかし、U20アジアカップ準決勝オーストラリア戦で敗戦した際には、ファンやサポーターからかんとは、その采配には批判もありました。
一方で、識者からは、育成年代の評価は「その先(選手の成長、A代表への選出)」を見据えるべきという意見もあります。
現役時代に様々な経験や苦労をしてきた船越監督。選手たちに伝えるものは多くあると思います。
JFAで育成年代の監督を歴任しているのは、そのよう経歴、礼儀正しい人柄を評価されてのことかもしれません。指導を受けた選手たちの今後の歩みに注目です。
まとめ|船越優蔵は「支える側」に回って光る指導者
今回は、船越優蔵監督について深掘りしてきました。
- 国見高校出身で、U-17世界選手権ベスト8の原動力。
- 大分・新潟などで活躍するも、3度のアキレス腱の怪我が現役生活に大きな影響を与えた。
- 引退後は、育成年代の監督を歴任。2025年U-20W杯では日本代表を率いる。
若い頃は自分の考え方から失敗を経験しながらも、人との出会いや周囲のサポートに助けられてきた船越優蔵。選手としては不完全燃焼だったかもしれませんが、その経験が今、若き才能たちを導く力になっています。
9月のU-20ワールドカップでは、どんな采配を見せ、どんな物語を生み出してくれるのか。楽しみに注目していきたいですね!